『あした』

 

 四階建ての白い病棟の三階、その奥から二番目が、『なつ』の病室だった。

三階まで階段を上ったところを右手へ折れ、東へ伸びる廊下に沿って、病室は並んでいる。

壁も天井も、新しくてきれいなその内装は、病室のドアがいくつも並んだ廊下の落ち込んだ空気を、いくらか和らげているような気がした。

病院の静けさは、あまり気分のいいものとは言えない。

落ち着いて心と身体を休めるためであるかのような静けさは、その実、いつ来るとも知れない『その時』に怯えながら毎日を過ごす、
病気の人たちの、その家族の人たちの、あるいはその運命を預かったお医者さんや看護士さんたちの、そんな緊張を内に溶かしている。

中でも三階の病室には、治るかどうかもわからないような、重い病気の人たちが多く集まっていた。

 消毒用のアルコール臭の中を歩く。

それぞれ部屋の戸の脇には、白いプラスチックのプレートに黒い文字で名前が書かれている。

廊下の東端の突き当たり、奥から二番目のその部屋のプレートにも、ひとつだけ名前があった。

『相山なつみ』というのは、私の妹の名前だ。

静けさの中に溶ける緊張は、少しずつ私の中へ染み込んでくる。

この戸をくぐれば、緊張は私のものになる。

私の緊張は空気を伝い、そしてまた病院の静けさの内に緊張が満ちていく。

 そっと戸を叩く。

「どうぞ」

戸の向こうから声はすぐに返ってくる。

ノックされたときには「どうぞ」と答えるように、なつは教えられていたから。

ゆっくり戸を開くと、ベッドの上で横になったまま顔だけをこちらに向けて入り口を見ていたなつは、入ってきたのが私だと気付くと、ぱっと笑顔を咲かせた。

「おねえちゃん!」

なつの声は大きかった。

いつもよりもずっと元気な、元気そうな、声だった。

私が昨日お見舞いに来ることができなかった分、余計にはしゃいでいるんだと思う。

急いで体の横に両手をついて起き上がろうとするなつの表情が、その瞬間歪む。

最近では、起き上がる動作すらも自力では苦痛らしかった。

それでもなつは無理をして起き上がる。

「だめだよ、なつ。寝たままでいいから、無理しないで」

私は慌ててなつの背中を支えようとするけれど、すっかり体を起こしてしまったなつには、またすぐに笑顔が戻る。

笑ったその目に、うっすらと苦痛の涙が浮かんでいることを、私は見逃さない。

「平気だよ、ほら」

そう言ってなつは、笑顔の上にもうひとつ笑顔を重ねた。

「もう…、無理しちゃだめだよ。起き上がりたいならちゃんと手伝ってあげるから」

「うん。でも自分でできるから大丈夫だよ」

どうにも無茶をするなつを心配しながらも、私は壁際に置いてあったパイプ椅子を持ってきて、なつのベッドの脇に腰掛けた。

なつの手を握れる位置だ。

「昨日は来てくれなくて、つまんなかった」

いきなり拗ねたような顔をされてしまった。

「ごめんね、昨日は本当に…」

真剣に謝ろうとする私の言葉は、なつに遮られる。

「ううん、おねえちゃんも忙しいんだもんね。なつ、ほんとは平気だったよ」

なつは何度でも素直に笑ってくれる。

 本当は、私もできる限り毎日来たいとは思っている。

病室にずっとひとりでいるのは、幼いなつでなくたって、寂しくて心細いに決まっているから。

でも、学校に通っていると、遅くなってしまうこととか、どうしても外すことのできない用事だとか、私の都合でお見舞いに来ることができないことがどうしても出てきてしまう。

そういうとき、昔ならなつはすぐに機嫌を損ねて、随分と泣き付かれたのに、いつからかそういうこともなくなっていた。

なつは大人になっていく。

 なつはもうずっとこの病室での生活を続けている。

四歳になる数ヶ月前に入院してから、もうすぐ三年になる。

薬品の臭いばかりで他には何もないようなこの病室で、ひとりぼっちのなつには広すぎるこの病室で、なつは毎日を過ごしている。

病気は軽くない。

身体も心も、もうとっくにぼろぼろのはずだ。

寂しがり屋のなつが時々ひとりで泣いているのを、私は知っている。

それなのに元気なふりをして「平気だよ」と笑うなつは、私が来るといつも決まって嬉しそうな笑顔ではしゃぐ。

 まだほんの六歳なのに、私がお見舞いに来なくても「おねえちゃん、忙しいもんね」と、素直に笑って許してくれるなつ。

本当は寂しいのに、私の前では、幼く、やつれた笑顔で寂しさを覆い隠してしまう。

そんななつを見るのは、悲しかったし辛かった。

そんなに無理してまで『いい子』になることなんてないのに。

「新しい本、持ってきてくれた?」

「うん、持ってきたよ」

私はバッグの中から本屋の紙袋を取り出す。

なつはそれを「ありがとう」と受け取った。

 なつは、本を読むのが好きだ。

少なくとも私には、本を楽しんでいるように見えた。

本当は好きではないかもしれない。

入院する前は、体を動かす方がずっと好きだったから。

今では本を読むとか、絵を描くとか、病室でできることは当然限られてしまう。

そんな数少ない楽しみの中でも、本を読んでいる時間が長いような気がする。

「これ、すごい面白かったよ!」

「ほんとに? よかった」

一昨日お見舞いに来たときに持ってきた本を、なつはもう読み終えていた。

厚い本だ。

六歳、小学一年生に、こんな本は難しかっただろうか。

簡単な本を選んではいるつもりだけど、ちょうどいい本がいくらでも見つかるわけではない。

気付かない内に少し内容が難しくなっていたかもしれない。

少なくとも私が小学一年生の時には、こんな本を読んだ記憶はなかった。

「どんなお話なの?」

「うん、あのね」

なつは本の中身について話し始める。

こうやって私に読んだ本のことを話すのも、なつの毎日の一部だった。

一度話し始めたら、なつは休むこともなく話し続ける。

入院したばかりの頃は、大きな声で喋り続けるなつに、「あんまりうるさくしちゃだめだよ」なんて言い聞かせることもあった。

いつの間にかその必要もなくなっていた。

その必要もないくらい、なつの声は小さくなってしまっていた。

 なつは話し続ける。

病院の外の世界へ出ることができないなつにとって、本はその代わりだった。

入院する前、私の小学校の話を聞いては、入学するのを心待ちにしていた。

みんなで歩いて学校へ行くこと。

みんなで勉強すること。

みんなで給食を食べること。

今ではそんな憧れの学校生活を、主人公の目を通して本の中に眺めることしかできない。

子どもが学校であったことを親に話すように、なつは本の中であったことを、私に話し続ける。

 雪が降っていた。

なつの頭越しに見える病院の庭に、うっすらと雪が積もっている。

病院の前を通る細い道を、車が音もなく走っていく。

いつでも静かな病院は、雪の日のあの静けさに包まれて、いつもよりも静かな病室に響くのは、弱々しく輝くなつの声だけ。

「もうすぐクリスマスだよ」

ひととおり話し終えたなつは、少しの間も空けずに次の話を始める。

クリスマスか。

言われてみればあと二週間くらいだったっけ。

「なつはもうクリスマスプレゼント決めた?」

「う〜ん、まだ。何がいいかなあ」

なつは下を向いて考え込む。

今年で、なつにとって三度目の、病院で迎えるクリスマスになる。

欲しいものを決めてお願いしないと、サンタクロースは持ってきてくれない。

というのは、私たちの決まりごとだった。

一年目、なつは『ぬいぐるみ』を欲しがった。

二年目は『おいしいクッキー』を。

もう少し欲張ってもいいのに、と思いながら、私は毎年、看護婦さんにも協力してもらい、気付かれないようになつの枕元にそっとプレゼントを置くのだった。

ベッドの脇の棚に目をやれば、今でもぬいぐるみはそこに座っていた。

 いつまでこうして、病室のクリスマスを迎えるんだろう。

なつの病状が少しずつ悪くなっていくことに、気付いていないふりはもうできなかった。

最近は少し調子が悪いみたいだけど、きっとすぐによくなる、なんて自分に言い聞かせるのも、もうほとんど意味がなかった。

一番起こって欲しくない事態は、確実に近付いてきている。

それでも私は、なつが無事に退院できることを信じ続けなくてはいけない。

なつがまた、私と一緒に家で暮らすことを、信じ続けなくてはいけない。

私がそれをやめてしまったら、たとえそれが信じている『ふり』だとしても、それをやめてしまったら、なつには帰る場所がなくなってしまう。

そんな気がしていた。

私がそれをやめてしまったら、なつが向かう先はたったひとつしか、ないような気がしていた。

 だからこそ私は、もしなつが退院できたなら、最高のクリスマスプレゼントになるなあ、なんて思った。

もう病室で過ごすクリスマスなんておしまい。

なつも一緒に、今度は私たちの家でクリスマスを過ごすんだ。

あり得ないと思う気持ちをできるだけ掻き消すようにしながら、思った。

 気がつけば、面会は終わりの時間だった。

「明日も来るからね」

「うん、早く来て!」

「学校が終わったらすぐに来るよ」

寂しそうな顔の上に無理矢理重ねた笑顔が、ベッドの上から私を見送る。

ばいばい、と手を振るなつに、同じように小さく手を振り返しながら、私は病室の戸をそっと閉めた。

 

 クリスマスは近付いてくる。

舞うような雪が三日間降り続いたある日、お見舞いに来た私は、お医者さんからなつの病状について話を聞いた。

なつの一生を、たった一言でまとめてしまえば、『もう長くない』と、そういう話だった。

もっと言ってしまえば、あとどれだけ持つか、と。

もう感じてはいたことだ。

誰がどう見たって、なつの病気は悪くなっていく一方だ。

勝手な推測だけれど、もしかしたら、なつ自身が一番それをわかっているのかもしれない。

だからって、もちろんお医者さんが諦めるわけじゃない。

私が諦めるわけじゃないんだ。

『その時』がなつに近付いてきていることを、知らなければいけない。

なつの現実を知って、それでも信じ続けることを、私の心が決めている。

なつの退院する日とか、なつと家で過ごすクリスマスとか、その先の日々とか。

信じなければ。

なつの帰る場所は、私が守らなければ。

 

 なつのプレゼントが決まらないまま、クリスマスはもう間近に近付いている。

早めに決めてくれないと、私にもプレゼントを用意する時間が必要だ。

いつもならそれほど迷わずに決めてくれるんだけど。

クリスマス前までに用意して、なつが眠ってから、病院の看護婦さんにプレゼントを置いてもらうようにしていたのだけれど、もし間に合わないようなら、最悪、今年はクリスマスの日に私が持って来るのでも仕方がない。

なつはサンタクロースを信じているから、なんて言い訳したらいいかなあ。

そんな心配をしながら今日もお見舞いに来た。

そんな心配は、すぐに後回しになってしまった。

 三階の奥から二番目、いつもの病室の前まで来たのに、私はその部屋の中へ入れなかった。

なつがひどい熱を出したらしい。

少し前に看護婦さんといつもの先生が、なつの部屋へ入っていった。

 病室に入れないだけのことが、なつの顔が見えないだけのことが、不安で仕方がなかった。

もしも。

なつにもしもの事があったらどうしよう…。

雪の日の静けさは今日も病院を包んでいて、その静けさは静か過ぎて、そして緊張を内に溶かしている。

どれだけ時間が経ったかわからない。

いつの間にか私はただ泣いていた。

 病室の戸が開いて、先生と看護婦さんが出てきた。

隙間から、なつがベッドに横になっているのが見えた。

「あの、なつみは…」

先生に、私は服の袖で涙を拭いながら尋ねた。

「病気とは直接は関係ない風邪のようですが、悪く拗らせるといけないので、ゆっくり休ませてあげてください」

「そうですか…」

風邪、か…。

一息つくと、全身の力が抜けていく。

最悪の事態を、今は免れた。

でも。

本当に?

ただの風邪なの?

ゆっくり休めば、なつはなんともないの?

先生の後について戻っていく看護婦さんは、心配そうな表情を隠しきれていなかった。

 どうやら風邪というのは間違いないらしかった。

ただ、今のなつの状態だと、ちょっとした風邪でも油断はできないのは、私でもわかる。

私はすぐにでもなつに会いたかったけれど、今入っていったら、なつのことだからきっとすぐに、辛いのも忘れてはしゃぐんだろう。

私は心配な気持ちをどうにか抑えつけ、病院のロビーでしばらく待つことにして、また溢れてくる涙を目に溜めたまま階段を下りた。

 

 なつの体調が一気に崩れたのは、ちょうど昼頃だった。

ずっとロビーで座り込んでいた私は、見慣れた看護婦さんに呼ばれて、随分と長い間ここにいたことに気付いた。

慌てた様子の看護婦さんは、心配そうな表情を隠す余裕もないらしかった。

まさか、と思った。

そんな…、なつ…?

 看護婦さんに連れられ、なつの病室に着いたとき、またそこに入ることはできなかった。

白い戸の向こうから、苦しそうななつの声だけが聞こえた。

 なつが突然体調を崩すのは、今日が初めてではない。

というよりは、言葉が悪いかもしれないけれど、むしろいつものことと言ってもいいくらいだった。

あるとき急に体調が悪くなり、痛い、苦しい、と、声にもならないような声で泣き叫ぶ、ということを、もうずっと長い間繰り返している。

何の皮肉だろう、苦しみ、泣き声をあげている時のなつこそ、なつの本当の姿だった。

なつはまだこんなに小さい。

本当はいつだって、こうして泣きたいくらい辛いはずなんだ。

なつの苦しみの周期が少しずつ短くなっていくのを見る度に私は、最悪の時が近付いてきているのを感じないわけにはいかなかった。

そしてまた、ずっと信じようと、思い直す。

 今日、なつはまた突然体調を崩してしまった。

確実に、その周期は短くなっている。

でも今日はいつもとは違う。

なつは風邪をひいていて、悪く拗らせれば危険だと言われた。

そして今苦しんでいるなつ。

その意味を考えないわけにはいかない。

信じなければ。

なつと過ごすクリスマス。

なつの病気はきっと治る。

なつは憧れだった小学校に通うんだ。

みんなで歩いて登校するのを楽しみにしている。

みんなでお弁当を食べるのを楽しみにしている。

学校から戻れば、その日一日の話を、楽しそうに思い出しながら私に話すんだ。

信じなければ。

 

 なつに会える。

どうにかそれだけを伝えられたとき、もう日はとっくに暮れていた。

相も変わらず、次から次へ流れてくる涙を服の袖で拭いながら、今日何度目かの三階への階段を私は駆け上っていた。

涙は止まらない。

目がちっとも見えない。

こんな顔でなつの病室には入れない。

なつに会う前に、この涙をどうにかしないと。

「どうぞ」

二番目の部屋の戸を叩くと、声はすぐに返ってくる。

聞こえるか聞こえないかくらいの、ほんの小さな声。

ゆっくりと戸を開くと、なつは顔だけをこちらに向けて入り口を見ていた。

「おねえちゃん。起こして?」

私がそっと戸を閉めて近寄ると、なつは布団の下から腕を差し出す。

はしゃいで、無理をして自分で起き上がることはない。

無理しない、それでよかったはずなのに、また涙が溢れてくる。

私はただ首を横に振った。

「そのままでいいから…。無理しないで」

なつもそれ以上、起き上がりたいとは言わなかった。

私は涙を拭きながらパイプ椅子を出してきて、なつの差し出した小さな手を両手でしっかりと握った。

それだけでなつは、安心したような、嬉しそうな顔をする。

その顔の下にある苦しそうな表情を隠し切ることはできない。

「おねえちゃん、泣かないで」

そう言って少し笑うなつ。

私の方が励まされてしまった。

「ごめんね、だって、心配だったんだよ…。なつ…」

泣いてはだめだ。

私が泣いていたら、なつも不安になる。

一番辛いのは、なつ本人なんだ。

私は、少しでもなつを勇気付けてあげなければいけない。

「大丈夫? 痛いの?」

どんなになつが表情を重ねても、私の目には苦痛の表情ばかりが映ってしまう。

「ううん、平気だよ?」

なつはまた平気だと言う。

私を安心させるために、『いい子』のなつは平気なふりをする。

そして私はそんななつの思惑通りで、もしなつが「大丈夫じゃない」と答えたなら、何をどうしたらいいのか、何ができるのか、少しも見当がつかない。

お医者さんを呼ぶか、こうして信じて隣で声をかけ続けるくらいしか、私にできることはない。

「新しい本、持ってきてくれた?」

なつは横になったまま、顔だけはずっと私の方へ向けている。

「もう読んじゃったの?」

厚い本だ。

昨日来たときにはまだ大分残っていたのに。

「うん、面白かったよ」

「ほんと、よかった。それじゃあ、風邪が治ったら、お話聞かせてね。新しい本は置いてくから、今日はゆっくり休んで」

お医者さんたちのおかげで、今はだいぶ落ち着いたらしいなつ。

でももちろん風邪が治ったわけではなくて、危険が去ったわけでもない。

ゆっくり身体を休めなければいけない。

私の言葉を聞いたなつは、一瞬迷ったようだった。

平気だ、と言おうとしたんだと私は思った。

「…うん、じゃあ治ったら絶対聞いて」

「うん、もちろん。なつは早く風邪を治すこと」

「はーい」

なつはいつものように笑った。

私はなつの頭をそっと撫でてやる。

やわらかい髪。

少しの間そうしていると、なつはすぐに静かな寝息を立て始めた。

とても疲れていたんだと思う。

面会の終わる時間まで、私はずっとなつの寝顔を眺めていた。

 

 クリスマスイブ。

なつはまだプレゼントを決めていなくて、当然私も、なつが望む物は買えていない。

でもそれも今ではほとんど問題ではなかった。

今一番重要なことは、もっと別にある。

「なつ…」

眠るなつの片手をそっと握りながら、私はもう随分長い間なつを見守っている気がした。

静かにゆっくりと呼吸をしているのが、じっと見つめてようやくわかる。

呼吸の音は聞こえない。

体もほとんど動いていないように見える。

白い肌はうっすらと赤みがさしていて、握った手は温かい。

それだけがなつの生きている証のような気がした。

少し視線を上げると、窓の外を音もなく雪が舞っている。

 昨日の明け方、なつの容態がまた急変したと病院から連絡があって、私は慌てて駆けつけた。

私がいつもの先生からとうとう伝えられたのは、どうにか生きているのがやっと、ということだった。

もう、一歩先には『その時』が待っていることを意味していた。

私がようやく会えたときには、なつはベッドで眠っていて、そのまま一日、目を覚まさなかった。

 今朝になって、なつは一度だけ目を覚ました。

私が隣にいるのに気がつくと、聞こえないほど小さな声で何かを、たぶん「おねえちゃん」と、一言だけ囁いて、そしてまた眠ってしまった。

手を離してしまったらそのままなつは目を覚まさなくなってしまう気がして、ずっとなつの体温を感じていたくて、私は傍を離れることができなかった。

ただ時間だけがゆっくりと、流れていく。

 生きているだけでやっと、と、先生の言葉。

なつはもう、明日を迎えることはできないかもしれない。

当然のように涙が溢れてくる。

 いつの間にか、私は眠っていたようだった。

目が覚めたのは、突然苦しむなつの声が聞こえたから。

「なつ!?」

「……っ!」

息ができないのだろうか、なつは口を大きく開いて荒い呼吸をしていた。

両手でしきりに引っ掻く首には血が滲んでいる。

私は慌ててナースコールのボタンを押した。

「あのっ、なつが…っ!」

先生と看護婦さんがすぐに駆けつけた。

私は簡単に状況を説明すると、なつは別の部屋へ運ばれた。

私はまた部屋へ入ることはできない。

 苦しみ、一日目を覚まさず、ようやく気がついたかと思えばまた言葉も出ないほどの苦しみ。

もう明日を迎えることはできないかもしれない、というその言葉で、私の頭の中はいっぱいになる。

次はもう、目を覚まさないかもしれない。

そして、宣告された未来をそのままなぞるように、追い詰められていくなつ。

嘘だ。

そんなの嘘だ。

そんなのは嫌だ。

なつ、明日はクリスマスだよ。

楽しみにしてたよね?

一緒に過ごすんだもんね。

プレゼントもまだ決めてないよ。

早く決めないとサンタさん困っちゃうよ。

今年はまた病室のクリスマスになっちゃったけど、来年は私たちの家で過ごせるように、また頑張るんだもんね。

なつが少しでも苦しくないように、私も一緒に頑張るから、ね?

 なつを思って、もうずっと泣いてばかりいる気がするのに、涙が枯れることはない。

治療室の前を離れることもできずに、溢れる涙を拭うことも忘れて、ひとつだけ私にできることがあるとするなら、それはただひたすら祈ることだけだった。

 お願い、なつ、死なないで…。

 

 夜。

日は暮れて、少しだけ積もった雪が、うっすらと明るい夜。

またなつと話せることを、私は奇跡のように感じていた。

 なつの手を握れる、いつもの位置に置いたパイプ椅子に腰掛けて、病室の静けさに耳を澄ませば、どうにかなつの声は聞こえる。

「お姉ちゃん、今からお願いしたら、プレゼントもらえるかな…?」

元気なふりはできなくても、なつの声、なつの言葉。

「うん、きっと大丈夫だよ」

もう店はどこも閉まってしまったかもしれない。

なつは何を欲しがるだろう。

なつの欲しがるものを、私はきっと見つけてくる。

それが、今私にできること。

「よかった…」

横になったままのなつに、安心した笑顔が浮かぶ。

その下に、苦痛の表情はどうやら見て取れない。

すっかりやつれてしまった、疲れたような微笑は、それでも素直な、心からの、本物のなつの笑顔だった。

「なつは何が欲しいの?」

「うーん……」

なつは少し心配したような顔を作ってみせる。

「サンタさんは、なんでも持ってきてくれるんだよね…?」

「うん、なんでも」

だって今、なつの願いを叶えてあげないなんて、そんなのはだめだ。

それだけは、絶対にあってはいけない。

きっと私が、なつの望むものなら、なんでも。

 もう一度、安心した笑顔に戻して、なつは言った。

「えへへ、それじゃあ、なつね……」

 

 小さな病室で、私となつはクリスマスを迎えた。

プレゼントにも気付かず、なつは眠り続けている。

握った手の体温だけがその命の証。

なつは今日を迎えることができた。

でも私は、なつの望むものを用意することができなかった。

なつにプレゼントを持ってくるのが私の役目だと思っていたのに、結局祈ることしかできないと知って、どうにも抑えきれない悔しい気持ち、情けない気持ち。

そして私は祈った。

サンタクロースに。

ごめんね、なつ、どうして私はなつのために、何もできないんだろう…。

 サンタクロースは、私には姿も見せずに、どこからか、なつにプレゼントを届けてくれた。

 夜の内にまた少し積もった雪が、窓の外、薄い色の空から降る日の光を受けて、きらきら輝いている。

「プレゼント……」

昼が過ぎた頃。

いつの間にか、なつは目を覚ましていた。

小さく開いた目で、私を見つける。

「おねえちゃん…。サンタさん…、プレゼント持ってきてくれた……」

「うん、よかったね、なつ。本当に…」

なつの表情は、うまく読めなかった。

笑っているような、泣いているような、嬉しそうな、少し寂しそうな。

でもとても落ち着いた、穏やかな表情だった。

「ありがとう、サンタさん…。大事にするよ……」

お礼を言うなつ。

私は心の中で、なつに続けて何度も、サンタクロースにお礼を繰り返した。

「おねえちゃんがサンタさんに伝えてくれたんだよね…」

一瞬、私は戸惑った。

私は何もできなかった。

なつの望むプレゼントをなつの口から聞いて、その瞬間からもう私はどうすればいいのかもわからずに、祈るだけだった。

私が祈らなかったら、サンタクロースはプレゼントを持ってきてくれなかったのだろうか?

「お姉ちゃん、ありがとう…」

なつの言葉は、なつの素直な気持ちだった。

わざわざなつの気持ちを否定することはないかもしれない。

何もできなかったけれど、私はなつの言葉を受け取っておくことにした。

それからもう一度、心の中でサンタクロースに感謝した。

「せっかくクリスマスだし、何かしたいこと、ある?」

私はできるだけ優しく静かな声で話しかけるように気をつけた。

自分の身体のことだから、なつはもうよくわかっているかもしれないけれど、それでも、少しでも不安を和らげることができるように。

「……お話したい…」

「…うん、そうだね」

なつの選んだ、いつもどおりの時間を、私たちは過ごした。

三年ほど前、なつが入院したそのときから、私たちがこの病室で過ごす時間は変わらなかった。

私は本を持ってきて、なつは読んだ本の話をして、私の買ってきた果物をふたりで食べたり、またなんでもない会話を繰り返したり。

変わらない気がしていた。

 なつは少しずつ泣かなくなっていた。

寂しくて苦しくても平気なふりができるようになっていた。

辛そうな表情の上に笑顔を重ねるのが、すごく、上手になった。

変わっていくことに気付かないふりをしている内に、その時は少しずつ近付いてきていた。

 落ち着いたように静かで、でもその時を待つ緊張を内に溶かした、病院の空気。

三階の、奥から二番目の部屋にも満ちていたその空気が少し和らいだのは、なつがその時を受け入れようとしているからかもしれない。

 時計を見れば、一時間ほど話していたらしかった。

長く起きているだけの体力は、なつにはもう残っていない。

「…ちょっとだけ、疲れちゃった……」

平気なふりはしない。

「あ、ごめんね、ずっと喋ってたもんね。少し休む?」

「うん…、また起きたら続きのお話しようね…」

なつの言葉の瞬間、ふたりとも不安に思ったことはたぶん同じだった。

それでもなつの先を信じるのが今の私の役目。

「大丈夫、ここで待ってるよ。ゆっくり休んで、また話そうね」

なつは僅かな表情と声でそれに答えた。

「…じゃあ…、えへへ…、おやすみ、おねえちゃん…」

「うん、おやすみ、なつ…」

おやすみの挨拶は、なんでもない、いつもの時を過ごすように。

なつは、静かに目を閉じる。

そのときから、クリスマスの午後はゆっくりと過ぎていった。

 

 日が沈む頃。窓の外には雪が舞っていた。

 ふと、なつが、少し笑った気がした。

眠り続けるなつ。

片手は私と繋ぎ、もう一方の手には、最後のクリスマスプレゼントを、しっかりと抱えていた。

 

 

――サンタさんは、なんでも持ってきてくれるんだよね…?

――うん、なんでも

――えへへ、それじゃあ、なつね……

 

 

――…『明日』が、ほしいな…