『その桜の咲く日に』
街に買い物へ出た帰り道。
買い物袋を左手に提げて、私はひとりのんびりと歩いていた。
暖かい晴れた日だった。
思わず歌を口ずさみたくなるような青い空。
薄い水色の雲がゆっくり流れていく。
道端に融け残った雪から流れる水が、アスファルトの道を黒く濡らしている。
今日から、学校は春休みに入った。
どうにか無事に大学受験も終わった私は、あとは四月からの大学生活を待つばかりだ。
ようやくのんびり過ごせる。
勉強ばかりで大好きな散歩もできなかったから、久しぶりに町の中を歩き回って、ついでに買ってきた左手の買い物袋は、クッキーの材料。
お菓子を作るのも数年振りだ。
家が時々建っているだけで、遠くには小さく森も見える田舎道。
私以外には誰もいない。
自動車も走っていない。
春も近い静かな曲がり角を左に折れて、私は細い脇道に入った。
家はもうすぐそこだけど、少しだけ寄り道をしてみようかな、なんて思って。
この道沿いに、小さな公園がある。
ブランコと滑り台、それに鉄棒があるだけの本当に小さな公園は、近くの家の子どもが、たまに家の人と一緒に遊びに来るくらいだけれど。
ただ、そこには一本の大きな桜の木がある。
子どもの頃、何度腕を回して抱きついてみても、ちっとも届かなかった。
きっと今でも全く届かない。
大きな木だった。
毎年春になれば、淡い桃色の花を枝一杯に咲かせる。
近所の人たちがお花見に来たりもする。
ここの桜がどこよりもきれいに咲くことを、みんな知っていた。
私も昔はよく来ていたのに、いつからだろう、桜をのんびり眺める時間も無くなってしまったのは。
少しずつ、公園の桜の木が見えてくる。
何本もの木に囲まれた、木陰の小さな公園に、私はそっと足を踏み入れた。
桜の木は、最後に見たいつかと同じように、堂々と、優しく、そこに立っていた。
堂々と、でも私たちを頭の上から抑えつけることはなく、優しく包み込むように、何度も枝分かれしてその腕を大きく広げる。
それと一緒に、私は、誰かがブランコに座っているのに気付いた。
遊びにきた子どもではなかった。
女の人が、桜の木を見上げている。
白い服の、きれいな人だ。
私がもう少し公園の中へ進んでいくと、その人もこちらに気付いて、微笑みながら小さく頭を下げた。
私は挨拶を返すと、その人の隣まで歩いた。
「こんにちは。」
優しい声だった。
話を聞いてみると、今日は桜を見に来たそうだ。
私は隣の空いているブランコに腰掛けた。
「それじゃあ、毎年見にきてるんですか?」
女の人は首を横に振る。
「昔は毎年来てたんですが…。
大学に入って都会に出てって、そのまま二年生の時に病気で入院しちゃったんです。
それからずっと病院で、ここに来るのは数年ぶりです。
…でも、少し早かったみたいですね。」
そう言って女の人は桜の木を見上げる。
何度も枝分かれしていく木のその先には、いくつもつぼみが膨らみ始めている。
あと一週間くらいかもしれない。
「そうだったんですか…。」
言われてみれば、女の人は少し細身で、白い肌をしていた。
なんの病気だったんだろう…。
「でも、それじゃあ、もう無事退院ですか?」
「ううん、もう諦めちゃったんです。
どうせもう、あんまり長くないから…。
だからここの桜を見ておきたいなって思って来たんですけど。」
「そうですか…、ごめんなさい、変なこと聞いてしまって。」
女の人はまた優しく微笑んで首を振った。
私はなんと声をかけたらいいのかわからなくて、結局黙ってしまった。
もうどうにもならない病気なのかな。
お医者さんにもう長くないって言われたのかな。
そんなことを思うと、どんな言葉も、逆に女の人を突き離してしまう気がした。
それに、その人はまるで、これから自分に起こることを何もわかっていない子どもみたいに穏やかで、なにも特別なことなんてないように話をするから、私はなにも言うことができなかった。
「ただ、桜の花を見たら、すこしだけ元気になれるかなって思ったんです。
きれいな桜を見て、病気がよくなって、夢みたいな話ですけど、そんな物語があっても素敵かな、なんて。」
そう言って、女の人は笑った。
次の日からも、私は早く桜の花が開くことばかり願って、毎日公園に通った。
女の人も、私が公園に着くといつももうそこにいて、毎日桜を見上げていた。
その度に私たちは話をして、その度に私は、一刻も早く桜が咲くことを祈った。
つぼみは膨らんでいった。
はじめて女の人と出会った日から、ちょうど十日が経った。
今日も朝から女の人は公園にいて、桜の下でずっと枝の先をみつめていた。
女の人に呼ばれて、その隣に立つと、私は木を見上げた。
「ほら、あそこ。もうすぐ開きそうなんですよ。」
手前の枝を指差して、女の人は言った。
「あ、ほんと。もしかしたら、今日中に咲くんじゃないですか?」
私達は、私の作ってきたお弁当を食べたりしながら、一日中、咲いてもいない桜を眺めて過ごした。
結局桜は咲かず、女の人はまた明日、と、微笑みながら帰っていった。
しかたがないかもしれない。
桜はいつの間にか咲いて、いつの間にか散ってしまうものだから。
きっと明日こそは咲くと、私は思った。
その夜、雨が降った。
朝一番で公園へ走って向かいながら、私は思わず笑顔がこぼれた。
あの人はもう来ているだろうか。
できれば私よりも早く来ていてほしい。
この日が来るのを、ずっと待っていたのだから。
そこを曲がれば公園だ。
あのブランコの辺りから眺めるのが、一番きれいに見える。
私は一気に公園へ駆け込むと、ブランコの手前まで走って勢いよく振り向いた。
あの日と同じ、暖かく晴れた日の、青い空の下。桜の花は、咲いていた。
そこにあの人は、いなかったけれど。