『やくそく』
「そう思わないか?」
「しらねぇよ。大体、何語しゃべってんだ、お前は?」
「ほう。正樹さまは日本語もわからなくなってしまったと、そういうことか。」
「うっさいな。」
はじめは、あの教師の言っていることには間違いがあるとか、肝心なところが抜けてるとか、そんなことばかり愚痴っていた。
そのうち聞いたこともないような歴史人物の名前が出てくると、いよいよ正樹にはついていけなかった。
「お前の歴史論なんて、聞きたくないね。」
毎日学校が終われば聞かなくてはならない、美春が語る世界史の数々。
ごくたまに、定期テストで役立つことがなくもないが、それ以外はただうるさいだけだ。
なぜ彼女がそれほどまでに歴史を勉強するのか、幾度となく疑問に思ったものだ。
「この私が、できそこないの正樹の脳でも理解できるよう易しく解説してやったのに、まだわからないというのか?」
「わからないね。」
「馬鹿が。」
命とりの一言。
正樹だって、女に手を挙げるほど、腐った人間ではない…はずだった。
しかし、美春は頭を抱えて、地面にうずくまっていた。
まあ、今回は特別、ということで。
「仕方がない。今回は私も言いすぎたようだ。」
いやに立ち直りもはやく、美春は前を行く正樹のとなりまで、走って追いついた。
隣に並ぶや否や、めずらしく美春の口から謝罪の言葉が聞けた。
「悪かったな、能無し暴力男。」
また、何かがぶつかるような鈍い音がした。
「今日の本題はそこではない。」
もう十分も二十分も自分の歴史論を熱く語った美春は、正樹にげんこつを二発もらってから、言った。
「正樹にうれしい知らせがあるぞ。」
美春のテンションは上がる一方だが、正樹は期待していなかった。
新しい歴史の知識を聞かせてもらえるのかもしれない。
美春の課題を代わりにやらせてもらえるのかもしれない。
いよいよ発表、といった感じで、美春は一人で盛り上がった。
「明日、二人で映画を観に行くぞ!!」
「いかねぇよ。」
「行くんだよ、アホ。」
「いかねぇっての。」
翌日、つまり土曜日。
結局二人は映画館に向かっていた。
言い合いでは勝負がつかず、無難にじゃんけんで決めることになった。
結果が、こうだ。
近くまで電車で行って、あとは歩いて。
映画館まで、あと数十メートルのところだった。
「美春…。おい、聞いてんのか?」
美春がいるはずの左隣には、誰もいなかった。
後ろを振り向いてみる。
数歩戻ったところに、人が倒れていた。
「美春!?」
驚きのあまり、大声を上げて駆け寄る。
美春が起き上がる気配はない。
「どうした? 大丈夫か?」
美春はうつぶせに倒れたまま、動かない。
正樹は、美春の肩をかるくゆすった。
そのときだった。
美春が何事もなかったかのように、ひょこっと起き上がった。
「な…なんてな。」
何も言えずにぼーっと固まっている正樹を見て、美春が馬鹿にするような顔をした。
「どうした? 随分と心配してくれたようだが?」
「…うるせぇな! さっさと行くぞ!!」
きびすを返し、正樹は大またに歩いていった。
「悪いな…。」
美春は、正樹には聞こえないくらい小さな声でつぶやき、苦笑した。
「仕方がない。」
「しかたなくねぇよ。」
「用事ができたんだ。仕方ない。」
「歩いてただけなのに、用事ができるわけねぇだろ!?」
今度は映画館の前だった。
大声で喧嘩する男女を横目で見ながら、客が映画館へ入っていく。
「とにかく、私は帰らないといけないんだ!」
「理由を話せって言ってんだよ!」
せっかく映画館の前まで来たとたんに帰ると言われれば、正樹が怒りだすのも無理はない。
「理由は言えないけど…電車代は全部私が払う。ごめん!!」
いつもとは明らかに違う美春の態度に、正樹は一瞬戸惑った。
「待てよ!」
あわてて叫んだが、財布を置いて走っていった美春は、あっという間に角を曲がっていってしまった。
「ごめんって…」
美春とは連絡がとれなかったし、学校にもこなかった。
そんな状態のまま、また一週間が経った、土曜日のこと。
突然の来客だった。
一瞬見ただけでは、誰なのかわからなかった。
ひどくやつれていたし、声も弱々しくかれていた。
だから、その人が美春だと気づくまでに、数秒もかかった。
「まだ怒ってるか?」
「違う意味で、な。とりあえず、上がれって。」
そう言って、美春を部屋まで連れて行った。
階段を上ることさえも苦しそうな美春からは、かつてのうるさかった彼女は想像もつかない。
『かつて』と呼ばなくてはならないほどに変わり果てた美春。
正樹は言葉がつまって、うまく話せなかった。
「知ってるのか?」
「お前の母さんから全部聞いた。」
「そうか…。」
ベッドに腰掛けた美春と、その正面で椅子に座った正樹。
部屋中が、真っ黒な雰囲気だった。
「何で話さなかったんだ?」
「別に。」
「また話さないつもりかよ。頼むから話してくれ…。」
いつものようには騒がないで、ただただ静かに言った。
美春は目を閉じて下を向くと、やれやれと首を振った。
「知ってのとおり、私は死ぬかもしれない。……死なないかも知れない。余計な心配はかけないほうがいい。」
「それで、二度と会えなかったらどうするんだよ。」
「…私は、死ぬつもりはない。まだ、正樹と映画、観てないから。歴史論も聞いてもらわないと…。」
「……馬鹿野郎…。」
美春は、目にいっぱいの涙を浮かべて、小さく頷いた。
その涙はあふれ、ほほを伝って、ズボンのひざに染みた。
初めて目にする、美春の涙…。
そのとき、突然美春がベッドへ倒れこんだ。
正樹は、駆け寄って、美春の肩を抱く。
「美春!!」
「そんなに大きな声ださなくても…。」
「おどかすなよ。」
「…いつか言おうと思っていたことがあるんだ。」
美春は、しずかに目を閉じた。
また、涙があふれた。
「いつもどおりに聞いてくれ。」
美春の方からは見えていないことはわかっていたが、正樹ははっきりと頷いた。
美春はなかなか話しはじめなかった。
なんと言おうか迷っているわけではなさそうだ。
いまさら、やっぱりやめようかと悩んでいるわけでも、きっとない。
ようやくにしてようやく、美春は口を開いた。
「私は、正樹のことが、好きだ。」
そこで一呼吸おき、また続きを話し始める。
「とでも言うと、思ったか…?」
聞きなれたような台詞と、他人のもののような声が、正樹には悲しかった。
「やっぱり、言いたいことはまた今度、言おうと思う…。」
美春の言葉の、語尾は次第に弱まっていった。
「そのときまでは、死なない。…そのときは絶対、聞いてくれよ……。」
弱く、弱く…。
ほとんど動くことのない、窓の外に浮かぶ雲。
まるで時間が止まっているかのよう。
静寂の音はどこまでも世界に満ちていき、景色はかすみ、色もなくなっていく。
そしてほとんど聞き取れない、かすれた声で、美春はつぶやいた。
……明日、二人で、映画を観に行くぞ………